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逆境から「チーム」で成し遂げた調達

次代を見据えた挑戦

リーマンショックが起きた2008年、扇港産業の米国拠点にも未曾有の危機が訪れる。そんな中、リスクを恐れず新たなビジネスモデルの構築に挑んだ、ひとりの営業マンの軌跡をたどる。

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逆境から「チーム」で成し遂げた調達
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100年に一度の危機に、新たなビジネスモデル構築を模索 01

竹久保がアメリカ・テキサス州のSENKO AMERICA CORP.に自動車事業の営業担当として赴任して間もない2008年、世界は“100年に一度の経済危機”と言われるリーマンショックに見舞われた。「昨日まで何十万個と納品していた部品を突然、“明日から出荷しないで”と言われる。自動車業界全体が想像もしなかった窮地に追い込まれました」と竹久保は当時を振り返る。扇港産業がアメリカに拠点を設立してからすでに10年以上が経過していたが、ビジネスモデルは設立当初からあまり変化していなかった。「そういう意味では扇港産業としても過渡期を迎えていました。今思えば、リーマンショックは私たちに次のステージへと突き進むきっかけを与えてくれた気がします」。
新たなビジネスモデルを構築し、現状を打破したい。アメリカの社員全員がそう願っていた時、メキシコで開催された展示会でチャンスは訪れた。竹久保はそこで出会ったアメリカの自動車企業から「ダイキャストの製造はできないか」と相談をもちかけられる。高級車がステータスとして大きな意味をもつ欧米では、重厚感のある金属製の鍵が好まれる。そのため軽さや機能性を優先したプラスチック製のものが一般的な日本とは異なり、そのほとんどがダイキャストを採用。鍵の製造は外観要求が非常に厳しく、高い検査基準をクリアしなければならない。ダイキャストに不具合があれば研磨の段階で表面に傷などが現れ、メッキも上手く施すことはできなくなる。当時、顧客はアメリカ国内のメーカーにダイキャストの部品を発注していたが、コストが高い上に品質も満足なレベルに達していなかった。「良いものをより安く」。シンプルだが難しい顧客からの要求に応えるべく、竹久保はまずサプライヤーを探し始めた。

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立場や国の違いを超えて、顧客・サプライヤーとひとつのチームに 01

製造工程で発生する研磨作業は人手が必要なため、人件費の高い日本企業では採算が合わない。そこでASEANを対象に、自動車業界での実績や試作品などを比較しながらサプライヤーを選定。四日市本社にいるベテラン社員にもアドバイスをもらいながら最終的に絞られた10社ほどの中から信頼できるパートナー企業を決定。こうしてアメリカの顧客と中国のサプライヤーが組んで、イチからものづくりに挑戦することになった。竹久保の役割は、プロジェクト全体のコーディネートである。お互い異なるバックグラウンドをもつ中、それぞれの文化や価値観を尊重しながら課題を解決していく。不具合が生じれば竹久保が顧客とともに現場に直行。中国の製造現場で行われているものづくりを自分の目で見て確かめ、顧客からアドバイスをもらいながら一つひとつの問題を丁寧に解消していった。
お互いに手探りでプロジェクトを進める中、竹久保は次第にチームとしての信頼関係が生まれていく手ごたえを実感する。「難しい要求をされた際もNOとは言わず、常に代案をもちかけるように心がけていました。そうしていくうちに苦しい場面でも、顧客が“うちも扇港産業を信じてできる限り社内調整をするから、あと少し踏ん張ってくれ”と声をかけてくれるように。どんな難問に対しても真摯に取り組む我々の気概を買ってくれたのかなと、胸が熱くなったのを覚えています」。また、サプライヤーとの関係もプロジェクトが進むにつれてより良好になっていった。「お互い真剣勝負の中で衝突することもありましたが、こちらの意見を押し通すのではなく、理解してもらえるまでとことん説明するなど誠意を尽くしました」。こうして同じベクトルに向かう中、顧客、サプライヤー、扇港産業が立場や国を超え、真のチームへと成長していった。

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諦めかけた時、心の支えとなった仲間や上司の存在 03

顧客やサプライヤーとの関係以外に、もうひとつ竹久保を支えていたのが社内にいる仲間の存在だ。「辛くても諦めずに最後までやり遂げられたのは同じ目標に向かって頑張る仲間がいたからです」と竹久保は振り返る。中国のサプライヤーとの細かいやり取りは、扇港産業の上海の後輩、社内でも随一の中国語の使い手である上原に窓口に立ってもらうことで、時差や距離、微妙なコミュニケーションの問題を解消。また当時の上司だった米国の総責任者、高野の存在も心強かった。これまでに数々の国で事業所を立ち上げた経歴をもつ高野からの「リスクや変化を恐れずとにかくやってみろ」という言葉は、竹久保の背中を押した。「正直なところ、このプロジェクトがチャンスかどうかは成功するまで誰にも分からなかったでしょう。それでも“実績がない”というただそれだけの理由で否定することはせず、周囲からプロジェクトを疑問視する声があがった時も、高野がすべて受け止めてくれました」。そんな高野の気持ちを無駄には出来ない。竹久保は自身を鼓舞し続けた。
こうして各拠点の日本人派遣社員、現地人スタッフを巻き込み、3年半かけて無事にプロジェクトが軌道に乗った時には「喜びよりも安心が勝った」と竹久保。赴任した当初は日本とアメリカの商品しか扱っていなかったSENKO AMERICAも、今ではヨーロッパ各地をはじめ、メキシコ、台湾、タイなど仕入先ルートが何倍にも広がっている。このプロジェクトを通して、竹久保は「チャンスはリスクを乗り越えて作るもの、仕事は全員でやるもの」ということに改めて気づけたと語る。「それまでは自分さえ結果を出せればそれでいいと思っていました。でも今はそれぞれの仲間と共同しながら、顧客やサプライヤーも巻き込んでチームとして目標に取り組むことの面白さや大切さを実感しています。このプロジェクトは誰かひとりが欠けても決してやり遂げられなかったでしょう」。
帰国する際、顧客やサプライヤーと「また必ずこのメンバーで仕事しよう」と別れ際には肩を抱き合った竹久保。彼は今、日本の自動車産業のメッカ、愛知県豊田市で営業活動に取り組んでいる。彼の米国での経験を買い、扇港産業が次なるミッションを与えたためだ。グローバル調達に精通したプロの営業として更に腕を磨く。彼の新たな戦いはまだ始まったばかりだ。

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